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自決命令

日本軍は、沖縄県民が戦争の足手まとい
になると考え、
自決するように命令したといわれているが…


●戦争末期、沖縄では民間人の集団自決が相次いで起きた。特に有名なのは、慶良間諸島で死者300人以上を数えたという渡嘉敷島での事件と、172人を数える座間味島での事件である。そして、それが当時島に駐留していた日本軍人の命令で行われた、と信じている人は多い。この2つの事件については…

①最初に軍人の命令によると記したのは、1950年に沖縄タイムス社から出された「鉄の暴風」だ。その中では、渡嘉敷島で自決命令を出したA大尉は徴発と称して村の食料を奪い、住民を虐殺した凶悪な人物として描かれている。

②一方座間味村では、現地部隊長のU少佐が出した自決命令を記録したという証人が現れた。

③大江健三郎も「沖縄ノート」(1970年)において、この軍の命令こそ「沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生」が明確に形をとったものとみなしている。

●ところが、実はこの2人がいわば冤罪であったことはすでに明らかにされているのだ。1970年3月、A元大尉と彼の部隊の将兵の生き残りは、人々の罵声を浴びながら沖縄に行き、渡嘉敷島で行われた自決者慰霊祭に参加しようとした。結局、反戦団体の妨害のためにA元大尉本人は渡嘉敷島に上陸できなかった。
しかしその時、那覇に到着したA元大尉をマスコミや反戦団体の殺到からかばったのは、渡嘉敷出身者だった。また、かつての部隊の面々も島民から暖かく迎えられた。

●マスコミに作られたA大尉像と、彼を迎える島民たちの態度とのギャップに不審を抱いた曽野綾子氏は、A大尉の部隊の生存者や、住民に自決命令を伝えたとされる元駐在、自決者遺族らに取材して、結局、自決命令が出されたなどはありえないことを示したのである。また、A大尉の部隊は掠奪を行うどころか、むしろ軍の食料を住民に提供していたこともつきとめた。

●また元駐在の証言では、彼がA大尉から受けた指示は「あんたらは非戦闘員だから、最後まで生きて、生きられる限り生きてくれ」というものだった。だがその時には、村長以下、村の幹部は「捕虜になるより死んだ方がいい」とすでに半狂乱になっており、彼がA大尉の言葉を伝えてももはや自決を止められなかった、という。(以上、曽野綾子「ある神話の背景」1973年)

●一方、座間味島でU少佐の自決命令について証言した人物は、自分の娘に「実は自決命令などなかった」と告白していた。戦傷病者戦没者遺族等援護法の改正で、1959年から軍との雇用関係などにあって戦死した人の遺族にも、遺族給与金が支給されるようになった。そこで自分自身を含め「集団自決」を遂げた人々の遺族に給与金が支払われるよう計らうため、軍の命令があった、と偽証していたのである。(宮城晴美「母の遺したもの」2000年)

●実はこの証人は生前、U元少佐に対し偽証したことを謝罪し、事情を説明した上で黙認するよう頼んでいたという。U元少佐は当初、「島の人を助けるためなら、私が悪人になってもかまいません」と約束したが、後にその証人が「語り部」として軍の自決命令の話を繰り返し観光客に話していることを知り、1985年頃から事実関係の公表を始めた。証人の娘はこのU元少佐の行動について、母との約束を反故にしたと憤っている。
      《原田実 新潮45 2006年4月号》


●沖縄戦の「民間人集団自決問題」で、国側の証人として出廷した曾野綾子氏…「自決命令が全く出されなかったという証拠もない。しかし、自決命令があったという証拠もない。自決にはいろいろな要素があり、軍の命令で死んだと言うことは(自決者に)失礼だ」
       《秦郁彦 「現代史の争点」
         他の著書「現代史の虚実」》


●座間味村遺族会長・宮村幸延氏が梅沢氏に、集団自決は梅沢部隊長の命令ではなく、当時村の助役の命令だったが、遺族補償のためにやむを得ず軍の命令ということにいたしました、申し訳ありませんという詫び状を書いている。(昭和62年3月28日付)
《秦郁彦 フジテレビ「報道2001」2007/4/8》

●しかし宮村氏は梅沢氏に朝から酒を飲ませられ、泥酔状態で書かせられた。私は書いた覚えがないと否定している。(本人は亡くなったが)また筆跡も宮村氏のものではない。
      《琉球大教授・高嶋伸欣  〃  》

●それは裁判で否定されている。それに本人の筆跡だというのも座間味村は認めている。
          《秦郁彦  〃  》

●軍の命令があったかなかったかよりも、大きな流れとして自決があったのだから、それは軍がやったものだという遺族の気持ちは分からなくもないが、それは歴史ではなく感情である。
           《中西輝政  〃  》


●集団自決当時の女子青年団員や沖縄の元看護担当者らから、軍命令はなかったという証言が相次いでいる。
            《産経新聞2007/6/23》


●満洲でも、ソ連国境の近くにいた開拓団の方たちは、虐殺や集団自決もあった。
      《藤原正彦 文芸春秋2007/5月号》


住民に手榴弾を渡して自決を慫慂したのは日本軍ではなく、地元出身の防衛隊員だった。防衛隊とは正規の兵隊ではなく、沖縄の在郷軍人会が作り上げた在郷軍人から構成される義勇軍であるに過ぎない。防衛隊員は日本軍とは別に、自分たちの家族と共に起居していた。それ故、村民と常時接触していたのは軍ではなく、防衛隊だったのである。

●軍から村民への連絡は役場の兵事係を通して行われる仕組みであり、軍が村民に直接命令することは厳戒令下以外はなかった。しかしながら、家族や村民と生活を共にする防衛隊員が、軍の意向を忖度して、勝手に指示めいたことを伝える事例はあり得た。

●防衛隊員は兵事係を通じて戦闘用に手榴弾を2個づつ支給されていたが、彼らがそれを自決用に家族に配布した場合もあったに違いない。防衛隊員によって手榴弾の保管箱が盗まれたとの話を、筆者は現地で聞いてもいる。
         《中村粲 正論2007/9月号》


●筆者は、海軍沖縄方面根拠地隊司令官・大田実中将に一家が命を救われたという生存者を取材したことがある。大田中将は、壕内に避難してきた住民を手厚く保護した。そして「壕内にいては戦闘に巻き込まれる」として、軍用車両と残り少ない食料を提供して住民を本島北部の山岳地帯に疎開させた。 
      《惠隆之介 SAPIO2007/9/26》


●沖縄本島より現地の方が冷静に分析している。渡嘉敷島では「とりあえず1ヵ所に集合するように」という命令を、「1ヵ所に集まって自決せよ」と解釈した人が多くいた。
    《小林よしのり わしズム2007年12月》


妻子や親を殺したのは、米軍によって辱められ残虐に殺されることと、肉親である自分に殺されることとの両方を天秤に掛け、後者を選んでやったのである。だから「そこにあるのは愛であった」(曾野綾子氏)というのは完全に正しい。また2つの死のうち、より人間としての尊厳が保たれると思われる方を選択したと言える。

●集団自決は、当時の日本人の心理状態では米軍が上陸すれば日本中どこでも起こった可能性がある。現に沖縄で、日本軍不在の地でも集団自決は起こっている。
        《藤岡信勝 正論2007/12月号》


集団自決はサイパン島の住民にも起こったが、あれも軍の命令だったのか。集団自決を引き起こしたのは、朝日をはじめとする戦時中の新聞の、軍部に迎合した「鬼畜米英」宣伝だ。
         《稲垣武 正論2007/12月号》


●はたして、軍による強制はあったのかなかったのか。「軍の関与があった。それを住民は強制と受け止めた」という書き方は十分できるはずだ。
そもそも教育とは、相反する立場の曾野綾子「沖縄戦 渡嘉敷島『集団自決』の真実」と大江健三郎「沖縄ノート」、そして沖縄タイムス社編著「鉄の暴風」と防衛庁戦史室の「沖縄方面陸軍作戦」を読み比べる読解力を身につけさせるものではないか。 
       《佐藤優 文芸春秋2007/12月号》






●沖縄は本土以上に日本人として立派に戦い、それが集団自決にもつながった。沖縄の人たちの勇猛果敢な戦いと数多くの犠牲があってはじめて、米軍は本土上陸を諦めたのだ。
        《八木秀次 正論2008/1月号》


●自決はともかく、上官が部下に「殺人命令」を下した例は実際にあった。アッツ島玉砕のときである。

昭和18年5月29日、日本守備隊2,500人が玉砕したが、中には傷を負ったり病で野戦病院のベッドに横たわったまま起き上がれない兵もいた。このとき、軍医たちは上官から病人を注射で薬殺するように命令を受けている。もし沖縄で軍命令が出されていたとしても、傷病兵を戦友の手で殺害して彼らを不名誉から救おうと考えたアッツ島の上官と、ほぼ同じ状況判断を下したといってよい。命令の根底にあるのは愛情である。
        《上坂冬子 正論2008/3月号》


●考えてもみよ。そもそも集団自決というものは、米軍がその圧倒的兵力を以て迫らない限りは起こりよう筈もないのである。サイパンでも満洲でも集団自決が起こったところはどこでもそうだ。敵がその圧倒的戦力で周囲を包囲し、もうどこにも逃げ場がないという心理的に追い詰められた極限的状況の中でしか、集団自決というものは起こらない。住民をそこまで絶望的立場に追いやったそもそもの元凶は、日本軍ではない。米軍(満洲の場合はソ連軍)なのである。
        《勝岡寛次 正論2008/4月号》


●蒙古が対馬を侵したときは、山奥に隠れた日本人は子供が泣くと見つかるので、子供を殺して息をひそめ、拉致された婦人は掌に穴を開けられて蒙古軍船の舳先に吊された。
      《岡崎久彦 「吉田茂とその時代」》


●昭和19年7月にサイパンが玉砕、絶対国防圏の一角が崩れる。そこで大本営陸軍部及び沖縄第32軍司令部は沖縄県民の疎開計画を立案した。対象は60歳以上15歳未満、合計29万人の三分の一の10万人、目的地は九州及び台湾に決定する。

●ただちに疎開が開始され、約8万人が県外へ脱出。さらに5万人が本島北部の山岳地帯へ疎開。最終的には約13~16万人が戦禍から免れることになった。
  《惠隆之介 「誰も書かなかった沖縄」
   他の著書「誰も語れなかった沖縄の真実」》


●サイパンでもテニアンでも、たくさんの人たちが亡くなっている。ひめゆりの塔の少女たちは軍命令で闘ったわけではない。僕も中学1年生だったけれど、「一人一殺」で死ぬつもりだった。
        《屋山太郎 正論2007/12月号》


●私の興味を引いたのは、大江健三郎氏が『沖縄ノート』の中でこの守備隊長を「あまりにも巨きい罪の巨魁」と書いていることだった。私は「罪の巨魁」と、神からではなく、人間から断じられるような人を現世でまだ見たことがなかったから、そういう人には会っておきたいと好奇心から思ったのである。それから始めた調査の結果を、私は「ある神話の背景」という題で、『諸君』の1971年10月号から1年間連載させてもらった。

「敵の手にかかって辱めを受けるより、潔く自決する」という考え方は、日本の軍部の圧制によって発生した悪事のように言われるが、世界的にはそういう考え方の方が少数派である。
イスラエルのマサダ要塞では、紀元1世紀にローマ軍に囲まれた千人近くのユダヤ人が、2年間の籠城の後、まず選ばれた10人が全員を殺し、この10人のうちの1人が残りの9人を殺して自分は自決するという最期を選んだ。この事件は決して強制された死ではなく、そこで死んだ全てのユダヤ人たちは愛国者としての名誉ある自決を選んだのだ、と今なお民族の誇りとして讃えられている。
       《曽野綾子 諸君!2009/6月号》



【沖縄集団自決】
沖縄での自決命令
/日本軍を敬愛する当時の沖縄の人たち
集団自決命令説を煽動する輩/朝日新聞と本土の過激派左翼
米軍基地反対闘争/本土の過激派左翼が煽動する運動